神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第2章
第2章 日本における神ながらの道の誕生

 第1章では、神ノ道(かみながらのみち)の大まかな意味と、宗教のおおざっぱな歴史を見てみました。そして、日本人が世界の宗教史の常識に合わない集団である事も。その違いの中身を見ていきましょう。

 日本人の信仰心の誕生


 話の前提として


 日本人の信仰心がいつ芽生えて確かなものになったのか、という問いは、日本人がいつ誕生したのかという問いでもあります。まずいくつかの前提をはっきりさせておきましょう。

 ひとつは、日本人という民族というか文化集団が生まれたことと、後に日本と呼ばれるようになった国家の枠組みの成立とは、直接関係しないと言うことです。日本の誕生というと、必ずと言って良いほど『「日本」という国の成立は7世紀以降で、それまでは存在していない』という説をとうとうと述べる人達がいます。国家という統治機構の成立や対外的な枠組みとしての国家などは、その民族の文化集団としての成立とは直接関係していません。7世紀より以前には日本人はいなかったなどという話は、狭い学問の特定の領域内では通じても一般に受け入れられる物ではありません。


 そして、この事は次の話につながっていきます。部族であれ民族であれ、その集団がひとつの文化集団とみなされるには、何が必要なのでしょうか。ある範囲の人々の集まりが、同じような社会的慣習や考え方をもち、その特徴が他の集団と異なると認識できるとき、その集団は個別の文化集団であると見なせます。

 一番わかりやすいのが、使用言語でしょう。言語の違いが、部族や民族の違いを現すことは素直に理解出来ます。ただ、日本などの例を見てもわかるように、方言も進化しすぎればお互いに通じないほどに独自の進化を遂げてしまいます。東北と九州や沖縄と方言が違うからといって、別民族とは考えないでしょう。実際、同じ文化集団なのです。結局その国や民族の違いが最もよく現れるのは、その集団の感性の違いでは無いかと思います。同じヨーロッパ人でも、国民性に違いがあることは、よく知られています。このように、最後は国民性などと呼ばれる気質や感性の違いが、ある文化集団を他の集団と区別させると見て良いのでは無いでしょうか。


 これらについて詳細に述べたのが、「日本人の気質」と「文化と文明」です。これ以上立ち入ると、同じものを書くことになってしまいますので、要点だけにします。

 日本人の誕生


 さて、日本人誕生の話です。日本人という民族あるいは文化集団の成立は、いまから1万6千年前に始まった縄文時代にあると考えています。縄文時代は1万年以上も続いた、世界でもまれな同一かつ均一的な文化の時代ですが、なぜか戦後いや明治維新以降の日本では非常に軽視されてきました。考古学者をはじめとする多くの人々の地道な努力と遺伝子解析などの科学技術の進歩により、最近20年くらいでしょうか、ようやく縄文時代が正しくとらえられて論じられるようになってきました。特に青森県三内丸山遺跡は、江戸時代から知られていた遺跡にもかかわらず長く顧みられなかったのですが、本格的な発掘が始まると、それまでの縄文の常識が次々と覆される画期的なものになりました。

日本成立
図は「日本人の気質」で掲げたもので、国立歴史民俗博物館「縄文はいつから!? 1万5千年前になにがおこったのか」(2009年)を参照して作成したものです。

 日本人の気質では日本文化の成立時期を、いまから1万2千年前の寒冷期が終わった頃と想定しました。最終氷期の温暖期(1万5千年前頃)が縄文草創期であることを考えれば、この頃(図の時期@)の成立でも、特に不都合は無いのかもしれませんが、何せあまりに昔の事なので、本論には直接の影響は無いものと考えます。

 縄文時代の研究が進むことで、縄文人の精神構造や神への考え方の一端も垣間見えるようになりました。しかし、まだまだわからない事がたくさんあります。人の心の中を表に出てきた「モノ」だけで推し量ることは、同じ時代に生きる人についてですら、非常に困難なのですから無理もありません。

 縄文人核ゲノム研究が拓く新しい日本人像


 なお最近の縄文人の遺伝子研究(縄文人の核ゲノム解析)によって、日本人のルーツについてもこれまでとは異なる説が提示されています。たとえば、縄文人の上に渡来系弥生人が被さったとする二重構造説にかわり、日本列島の日本人は縄文人のDNAを受け継いでいる事がわかりました。さらに縄文人の元となった人々はかなり早い段階で、 東アジア人の共通先祖から分岐したもので、北東アジア人、東南アジア人の系統とは別の系統である事もわかりました。つまりこれまで争っていた後世のルーツでの列島入植自体が否定されたのです。

 これらのことは、約4万年前に日本列島に人類がやってきて、(後期)旧石器時代と呼ばれる時代が1万6千年前まで続くのですが、ここで集団の入れ替えでも無い限りは、縄文人の前身は旧石器時代に遡ることになります。それはとりもなおさず、縄文文化の始まりが日本文化の始まりという本稿の説も、訂正されることにつながるかも知れません。それはそれで楽しみですが、精神文化の探求という意味では、ますます難しくなることも確かでしょう。とりあえずは、おぼろげながら私たち自身が感じられる縄文人の感性を頼りに、話を進めていきます。

参考資料
縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く 生命誌ジャーナル 神澤秀明 2015

 縄文の神


 縄文時代を代表するものなのに、その意図や心がよくわからないものがあります。たとえば、縄文土器や土偶などです。縄文土器は、決して祭器としてだけ作られたわけでは無く、多くが煮炊きなどの日常生活用品です。にもかかわらず、その名のごとく鮮やかな紋様が施されているばかりか、最も不可解なのが、その口の部分です。普通に平らな丸い形では無く、さまざまな突起物などで装飾されています。なぜ、このような使いづらい日用品を作り、使い続けたのか、大きな謎なのです。例えば有名な火焔土器は、見ていると芸術性を感じますが、これを実用品として日常使うと考えたとき、現代人なら実用では無いと考えるかも知れませんが、彼らはそこに寄り深い精神性をみいだしていた、価値を認めていたのでしょう。縄文人の精神の豊かさに圧倒されてしまいます。

 実際、弥生土器は、実用一辺倒でおもしろみの無い土器へと、一変してしまいます。ここに、それまでの「精神・心」重視の社会から、「物質」重視の社会に、日本人の世界観が大きく変化した事がみてとれます。


 土偶に至っては、さらに不可解です。実に様々な形がありますが、その大半が壊されています。つまりはじめから壊すために作られているのです。この世とあの世とは逆の世界だと考えられていたので、壊すことで健康や安全などを祈願したとも言われていますが、実際の所よくわかりません。言えることは、土偶が縄文人の精神と深く関わるものであるという事実です。

 目だけが異様に強調された遮光器土偶や、国宝に指定された仮面の女神や合掌土偶、中空土偶など、さまざまな土偶を眺めながら、遠いご先祖様達の心を想像するのも楽しいことです。奇妙なのに見ていてどこかほっとするものを感じるのは、縄文の感性がまだ私たちの遺伝子に残っているからかも知れません。


 縄文時代の精神性を現すものとして土器や土偶のほかに、近年見直されるようになったのが、巨木信仰と呼ばれるものです。見過ごされてきた縄文遺跡の穴が、実は大きな木を立てた跡だったことが、次々と明らかになっています。
 長野県諏訪大社に伝わる御柱と呼ばれる祭りは、樹齢200年をこえる巨木を山から切り出してきて、人力だけで運び神社の四隅に立てます。木遣りでは、「山の木が里に降りて神となる」と謳われます。この祭りは、縄文時代の巨木を立てる祭祀儀礼が唯一生き残り、いまに伝わるものだとされています。

 縄文人がとてつもない労力と歳月を掛けて、巨大な木をいくつも立てる。そこには、神と呼ぶかどうかはさておき、超越的な自然の力や存在に対する信仰心を見て取ることが出来ます。大きな柱は、何を意味しているのか。山や森を神とみた人々にとって、巨木は神の一部でもあります。あるいは神が宿る依り代かも知れません。また、祭るべき神々や先祖霊を守護する存在だったかも知れません。神道的に言えば、神の領域を示す結界でもあります。

 大きな木などを天に向かって立てると言う行為は、さまざまな意味づけが成されています。後の道祖神に見られるように異界との境界に建てる、後には高天原にもつながる天界との橋渡しや降臨の道具、神話に見られるように天地創造の元になるもの等々、この事を取り上げた多くの論文が提出されています。これらが現在の日本人にまで精神の遺伝子として伝わってきたからこそ、世界でもまれな日本文化の特異性が維持されているのでしょう。その事にもっと注意を払うべきなのです。


 さらに、気象や天体の動きに関わるものもあったことが、次第に明らかになりつつあります。北海道をはじめ各地の縄文遺跡から見つかった環状列石(ストーンサークル)、天体配置や夏至・冬至などの季節を意識していたとみられる遺跡が多数発見されています。弥生時代を日本人のルーツと考えていた時代には、全く顧みられなかった縄文時代の豊かさは、とりわけその精神性にあったのでしょう。

 神ノ道の「神」の本質


 そして、この時代の神は自然神と祖先霊を中心とし、知性による神の意味づけよりも、感性に従って素直にそれを認める存在だったのでしょう。神ノ道が、知性が生んだ宗教では無いというのは、この事です。言うなれば感性が生んだ宗教なのです。

 それを生み出したのが、風土である事は疑う余地も無いでしょう。1万年以上もほぼ狩猟採集に近い形での繁栄を続けられたのは、その自然の恵みの豊かさにあります。山、森、川、海、あらゆる自然が豊かな恵みを施してくれました。しかし世界でもまれな幸運に恵まれた自然環境は、同時にまた災害列島の自然でもあります。

 地震、台風、大雨、洪水、津波、山津波、噴火、川の氾濫、日照り、落雷等々、これでもかと云うほどに、多くの自然災害は日本人の身近にあります。地震大国日本に暮らす我々は、小さな地震位では別に驚きもしませんが、地震がほとんど無い国からきた人達は、小さな地震でも大地が揺れることに言いしれぬ恐怖や不安を感じるようです。このような自然に対する恐れこそ、神に対する畏れにつながるものです。

 神ノ道が成立した当初においては、病気やけがさらには死という人間の身の上に起きることよりも、自然がもたらす変化の大きさが、意識に与える影響のうえでは勝っていたのでは無いでしょうか。


 本居宣長が、日本の神の本質は、善悪に依らずその持つ超越的な力にあるといっています。つまり、神という存在は、人間の及ばぬ力をもつもの、あるいはその力そのものだというのです。この考え方は、基本的に正しいでしょう。豊穣の恵みと恐ろしい災いを同時にもたらす日本の自然という存在。どちらが正しいとか、悪いとかいう感覚を越えて、その超越的な力のありようにただ縄文の人々は、ひれ伏したことでしょう。その感覚は、いまも全く変わっていません。

 東日本大震災や連続地震の熊本地震などを経験した人が、人生観が変わったと話すその意味は、科学万能観や傲慢な人間の思い上がりを戒められたという素直な感覚でしょう。いまもなお、神ノ道は、日本人の心に根を下ろしているのです。


 いずれにせよ、一万年も続いた縄文時代ですから、その間に我々の精神構造が遺伝子にまで刻み込まれるほど深く成立していったことは、間違いが無いでしょう。それが、現在まで続く独自の日本文化の基盤を成しているのです。縄文研究がさらに進んで、縄文人の精神がもう少し身近に理解出来る時がくるのも、そう遠くは無いかもしれません。