神ノ道

神ながらの道

オン草紙
第一部 第3章
第3章 日本の神ながらの道

 神ノ道の理想的な生き様


 これまで神ノ道の本質的な概念を見てきましたが、それらを正しく実践していくことはかなり大変な事でしょう。人間はその名の通り、一人では生きられず、人が集まって支え合い社会を構成しています。しかしながら、その社会において最も多くの問題を生み出す原因もまた、人と人との関係です。好き嫌いや、愛憎、嫉妬、ねたみ、差別などさまざまな思いが複雑に絡み合って、摩擦や衝突を生み出します。それは、当然のことながら神の望む姿ではありません。人間社会における権威も権力も、身分や地位も、財産の多寡も、すべてはこの世の小さなかかわりであり、神の眼から見た本質の姿とは、関わりの無いものです。ですが、多くの人間はそれにとらわれ執着します。愛しながら、その愛に執着しないなんて、可能なのでしょうか?

 宮沢賢治の「雨にも負けず」にある一節は、神ノ道にあう人間の理想の在り方を示しています。

 ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ

 そもそも他人からいかなる感情の対象ともならない存在、まるで空ゆく雲のような存在、これこそ理想の姿です。でくの坊と馬鹿にされても構いません、すばらしいと褒められなくても構いません、その存在を邪魔なものとすら見なされない、これこそが神ノ道のありようです。あるがままの姿を他人が何ら気に掛けない存在なのです。無視されているのでも無く、さりとて邪魔にもされていないのです。

 この生き様、日本人は意外と良く感性で理解しています。達観した人物という表現だけではまだまだ足りません。もっとおおらかで自然な人物です。こんな人物について読んだ記憶はありませんか?そうです。良寛様の話の中には、この姿が出てきます。他人からの中傷や評価など全く気にせず、自然の中であるがままに生きている良寛様。家の中に竹が生えて屋根を突き破ろうと、馬のしっぽにもてあそばれようと、ぼんやりと月を眺めて自然と一体化する。

 少し変わった浮き世離れした人物は、昔話や漫画にも登場します。共通しているのは、その人間としての存在が、社会の中で邪魔にされていないと言うことです。私事で恐縮ですが、学生の頃、仲間と「将来はルンペンでもしながら暮らして、誰からも相手にされないで生きるのが理想だよな」と良く語りあいました。日本人なら誰でも感性で理解出来る「人の生き様」なのでしょう。

 究極の理想像だからこそ、神ノ道なのでしょう。それが神への道なのですから。

 神ノ道の特長




 道とは何か


 神ノ道の主要な概念を説明しましたので、ここでようやく神ながらの道の「道」とは何かを話すことが出来ます。一言で言えば、道とは神が人間に示す道理・規範・常識・判断基準などの事です。本居宣長は、道というのは、中国から入ってきた思想であり、日本古来の物では無いと批判しています。その言わんとすることにはさして反論も無いのですが、日本においては、『道』は全く独自の発展を遂げた思想だと申しあげたいのです。そして、その大元はやはり神ノ道なのです。

 神が与えてくれた自然や存在のすべてにおいて、あるがままの姿を尊重し、無常をその本質と認めながら、いかなる物にもとらわれることの無い生き様や有りようを貫くことが、神そのままのあるべき道を歩むことです。その時の道は、神が人間に本来与えてある規範や常識さらには判断の基準のことを意味するのです。ですが、神はそれを直接指示したり、示したりはしないのです。なぜなら、神はすべての存在するモノに霊を与えるように、それらの「道」をそれぞれのありように応じてすでに与えてあるからです。人間には、人間としてのあるべき姿を自ら判断できるような道徳心や倫理観、さらには知性という武器を与えているのです。したがって、人間は自らの意思で自ら歩むべき道を知っている、いや知らねばならないのです。


 これが、思想や哲学で語られるさまざまな道との根本的な違いになります。そこには、いかなる言葉による説明も、基準となる参考例も存在してはいないのです。孔子でも、矩(のり)を言葉では充分に説明できなかったように、仏陀が悟りを充分に言葉では説明できなかったように、道もまた言葉で説明できるものではなく、自らの行動(考える事などすべてを含めたもの)を実践する事でしか、理解し得ないものなのです。つまり、これもまた感性によって感得するモノなのです。

 あるがままにさりとて執着すること無く、淡々と歩み続ける。それが真に調和のとれたものであれば、神ノ道を歩んでいる事になります。

 神ノ道のさまざまな特長


 神道のさまざまな特徴や日本人の気質特性を、数え上げていたらきりがありません。そのようなさまざまな特徴を生み出す、より根本的な概念についてはすでに説明しました。それでも物足りなさを感じるのは、やはり神道でおなじみの単語などが出てこないからでしょうか。

 純白の白、穢れ、祓い、禊ぎ、霊振り、清廉潔白、潔さ、人に尽くす、平等、親切、おとなしい、優しさ...等々、数多く思い浮かびます。「日本人の気質」や「文化と文明」でも触れていますので、ここではそれ以外の神ノ道により深く関わるいくつかの特徴を見ることにしましょう。

 清らかさ


 穢れや汚れを嫌う神ノ道は、当然「清らかさ」を大切にします。それは、無垢な純白性や純粋性にもつながります。生まれたてのこれからの可能性のある命を現しもします。また、無常性に照らしてみれば、創造や再生の証でもあります。枯れた、穢れた状態からからの離脱を目指すものでもあります。

 よどむこと無く、流れゆく川の水の清らかさは、無常であり、こだわらない調和のとれた姿です。人間が、常にこのように清らかな心を持ち続けられているならば、特別な修行も戒律も無く、そのまま神ノ道を歩むことにつながります。

 感謝


  日本人ほど、感謝という言葉を多用する民族は珍しいかも知れません。人に対してだけでは無く、自然に対しても万物のあらゆるものに感謝をします。なぜなのでしょうか?
 人間は一人では生きられない集団の動物だから。それもひとつの答えでしょう。ですが、もっと深いところでヒトもまた自然の一部に過ぎず、生きているのでは無く、生かされていると感じているからでしょう。

 人間は母親の母乳を離れたときから、同じ自然界にある他の生命を食することで自らの命をつなぎます。どんなに理屈できれい事を並べようと、特定の生き物を食することを避けようとも、その事実は何も変わりません。動物だけが命では無いのです。すべてのモノにタマは宿るのですから。他の命を奪うことで自らの命を生きながらえる、それが自然の理なのです。これで感謝しない気持ちが生まれないはずはありません。

 きれいな水があればこそ命は生きながらえます。汚れていない水もまた自然の大いなる生命、息吹なのです。火、水、空気、土、私たちはそれら自然の息吹を存分に与えられることで、生きているのです。


 日本人の好きな「生かされている」という言葉は、知性宗教が言うところの神が人間だけ特別扱いしてくれている事への感謝では無いのです。全く逆で、人間もまた、自然の一部として自然の理の中で生きていける、そのように創造してくれた事への感謝なのです。

 人間の知性もまた神が与えてくれた一部に過ぎないのに、傲慢にも思い上がった人間は、知性によって自然の理すら自由に出来るなどと思い上がったのです。その状況も変わりつつあります。知性のより深い発達により、だいぶ謙虚になりました。その謙虚さが、黙って感謝する気持ちを生むのです。


 他にも多くの触れたい神ノ道の特徴的な言葉はありますが、他に譲ることにします。

参考資料
HP 日本人の気質
HP 文化と文明